引っ越しから一週間経過
早いもので、引っ越ししてからもう一週間が経経過しようとしている。
妻と生活していたころから変わったことと言えば、まず妻の顔を見ることがなくなったことだ。
もちろん寂しい。
ちなみに、離婚届はまだ未提出ではあるが、既に別居しているので、感覚的には離婚しているようなものだ。
これまで新聞やネットで離婚に関する記事を目にすることたびたびがあった。
そこには、あまりのショックで何も手につかなくなったり、自暴自棄になって生活が荒れたりした体験談などが書かれてきた。
これを自分の場合にあてはめて考えてみると、思っていたよりも喪失感や絶望感が薄い。
離婚に関する意外な感情
おそらく、長い時間をかけて話し合ってきた結論だということもあるが、まだ実感が湧いていないだけなのかもしれない。
もちろん、彼女への愛情が乏しかったという訳ではない。むしろ、自分との相性はよいと思っていたし、私にとって大事な存在だったことには間違いない。
しかしそれ以上に、私が人間的にまだ未成熟で、結婚することへの覚悟が希薄だったのだ。
そんな自己嫌悪を感じながら、仕事に対するキャリア形成と同様、人生設計自体が甘すぎたことを痛感している。
離婚直前の最後の共同作業
昨日、今まで住んでいた部屋に行って、退去のための掃除を私と彼女とで行ってきた。
色々な個所を雑巾がけしたり壁を拭いたりしていると、フローリングやクロスに付いている小さなキズを見るたびに、当時のちょっとした思い出が蘇る。
それに加えて、なぜか結婚式の様子が頭に蘇ってきた。
そういえば披露宴では、ウェディングケーキをスプーンに乗せてお互いの口に運び、ファーストバイトという初めての共同作業を行った。
思えばあの頃が人生の絶頂期だったのかもしれない。
そこから約5年が経過した今、離婚で退去する部屋の掃除という、最高に侘しい共同作業をしている。
この部屋には大きな荷物はもうほとんどなく、残っているものは粗大ごみとして回収してもらう不用品だけ。当然ながらそこに生活観は全くない。
ただ、いつまでも感慨に浸ってばかりはいられない。照明などはすでに取り外していたため、暗くなる夕方までには作業を終わらせなければいけないのだ。
そこで、目立ったゴミやほこり、フローリングのふき掃除などを二人で手分けして作業した。
幸い、作業はスムーズに進んだ。
あらかた掃除が終わったのは15時を少し過ぎたころ。ここらあたりで切り上げることにした。
部屋全体を見渡してみると、掃除してキレイになった分、さらに殺風景になった。
そんな光景を見ながら『ずいぶんと寂しくなったね』と二人で話した。
掃除が終わって
掃除が終わり、部屋のカギを管理事務所に返却した後、彼女が私を駅まで送ってくれることになっていた。その道すがら、近くの喫茶店で一緒にコーヒーを飲むことにした。
もうすぐ離婚するというのに、一緒にお茶をするというのは何とも不思議な気がしたし、それは彼女も同じのようだった。
でも、たとえ離婚することが決まったとしても、相手が心底憎くて別れるわけではない。離婚した後も、友達のような関係に戻ってもいいのかもしれない。
少なくとも私も彼女も、当人同士が納得していればそれでいいと思っている。
そして、二人でコーヒーを飲みながら、離婚届を出した後は一緒にご飯でも食べようということを話した。なにせ今までは、節約のため外食することを控えていたからだ。
せめて最後の日くらいはおいしいものを食べに行こうと約束した。
私はその日、感謝と謝罪を綴った手紙を渡そうと思っている。だからといって、将来的な復縁を望んでいるわけではない。
ただ単に、心の底からそうしたいと思っているからだ。
男性と女性では、5年間という時間が持つ意味合いは随分と違ってくる。彼女が再婚して新しい人生を考えているのならば、私は彼女の貴重な時間を奪ってしまったことになる。
私は彼女の貴重な5年間を無駄にしただけでなく、バツまで付けてしまったのだ。
だからこそ、せめて手紙だけでも私の気持ちを伝えたい。それでお互い、キッパリと別々の方向を歩いていきたい。
大みそか。そして年明け。
世間はもう年の瀬。テレビでは毎年のごとく年末特番ばかり流れている。あっという間に2018年も終わってしまった。
そして年明けからは良いスタートを切りたいのだが、早々に離婚届を提出することになっている。
相変わらず冴えない40代底辺無職男…何にせよ、今年は人生の中で最も良いことのなかった一年だった。
はたして1年後、私はどうなっているのだろう。
相変わらず仕事が決まらないまま、このブログに暗~い内容を書いているかもしれないし、仕事が忙しくてそんな暇すらなくなっているかもしれない。
もちろん後者であることを願うが、果たして…
でも、私はまだいける気がする。
何の根拠もないが、こう思えるときは大体、うまくいくことが多い。ただ、正直なところ、こう思っておかなければ、とてもじゃないが心が折れてしまいそうだ。
Cafe de 無職はまだまだ来年も続きます。今後ともどうぞよろしくお願いします。
◆真・転職回顧録-離婚編 4/9へ続く
次回:離婚届の提出を間近に控えた無職の元旦
はじめまして、興味深く拝見させていただきました。
当方も人生七転八倒といった有様で、自分の人生と重ね合わせて思わず胸を打たれ涙しました。
とくに、窮したときの周囲の反応や他人の人生を底に追い落すような人物・環境に
まるで自分のことを言われているかのように共通の要素や法則性を見出してしまい、悔しかったり、悲しかったり、不思議に思ったりといろいろな感情があふれ出ました。
一つ、私の持論を紹介したいと思います。僭越ながら筆者様に対するエールであるとともに自身への自戒と奮起の言葉でもあります。
それは「普通の人とは普通の人だけの世界に住みたい人のことである」ということです。
世間一般の普通の人というものは特別に相手の心情を慮ったり、思いやったりする能力に欠けており、善悪や常識の境界について自分の損得に直結するかどうかで恣意的に変えます。そして曖昧なモラルの境界上を咎められるギリギリの悪事を働いて自身に利するようチョロチョロとうろつき、それを楽しむ性質があります。「良いものはなんでもやってみて、悪いことは出来るだけしないにこしたことはない」と考える人は稀で、「バレない程度に悪事を働き、最低限のルールさえ守っていれば何をしても個人の勝手だ」と考えるのが一般大衆です。
筆者様の人生については客観的に見ても波瀾万丈と言わざるを得ないところであり、普通ではありません。
先に述べたとおり普通のひとは相手が「普通の人」であることを前提に話をし、相手に普通の人であることを望み、普通の人以外の人の存在を頑なに認めません。
よって、普通の人に「普通でない人」の気持ちや解決策が返ってくる見込みは、(私の経験上)ほとんどありませんでした。
それゆえ、「普通でない人」が困難に打ち勝ち生き抜くためには、まず「普通の人の普通の価値観は役に立たない」と素直に受け止め、「普通でない人の普通でないやり方」から学ぶ必要があると思います。
私にとってこの同じく「普通でない方」の「普通でない話」がいかに勇気を与えてくれたことか、お分かりでしょうか?そうです、普通の人ではなく、「普通ではない人」をたくさん味方につけ、そのような人がたくさんいる環境に身を投じ、その人たちの力を借りることで問題が解決に近づくのです。卑近なレベルに落とし込めば、ある意味ありふれていますが「自分と同じ経験をしてきた同士と仲良くなること」だと思っています。これは薬物カウンセリングや被害者遺族の会など実証例が安易に見つかると思うのですが、「普通の人」はそれをなんとなく耳にしてただ看過してしまうのみで、その意義を感じて生きているわけではありません。
あなたの困難に打ち勝つ姿勢は、「普通の人」にはできないことで、表立って認められないどころかむしろ軽蔑されることも多々あるかと察せられますが、私はこうした方について男性としてとてもカッコよく、人間としてはとても自分のことのように誇らしく思います。
お互いに頑張りましょう。